初代プリウス(1997年~2003年)

●プロジェクトスタート 

 豊田英二氏から「21世紀に通用する車を」という号令が発せられて、プロジェクトメンバー「G21」の中では「21世紀にふさわしい車とはどんな車なのか?」という議論がはじまります。1992年に開催された地球サミットで「地球温暖化防止条約(正式名称:気候変動に関する国際連合枠組条約)」に155カ国が署名し、エネルギーや地球温暖化問題に世界が注目していた頃でもあり、「21世紀の自動車は、現在の車が保有している快適さ、運転する事の楽しさ、便利さ使いやすさ等を犠牲にする事なく、もちろん安全性も確保され、それでいて資源問題・環境問題に対応した車」というコンセプトでまとまりました。

 1994年の終わりには、新しく開発する自動車の構造(パッケージング)や車両サイズ等はほぼ決定していましたが、最大の課題は動力源をどうするかという事でした。プロジェクトでは、新しい車は50%の燃費向上を目標としていたからです。同じ時期に三菱自動車から「GDI」と呼ばれるCO2削減を対処できる筒内噴射方式のエンジンの発表がされていたこともあり、50%以下ではすぐに他社が追い付いてくるだろう、それでは「G21」の意味がないという厳しい見解でした。

 ガソリンエンジンでは燃費向上50%には限界がある事から、新しいパワーユニットが必要でしたが、そんな折研究部門でハイブリッドシステムが進んでいるとの情報が入ります。ガソリンエンジンと電気モーターを組み合わせて自動車を動かす事で、ガソリンの消費量と二酸化炭素の排出量を大きく削減する事が出来るハイブリッドシステムです。ハイブリッドシステムは、新しいパワーユニットとして搭載する事が、上申されました。

●東京モーターショー 

 奇数年に開催される東京モーターショー。モーターショーではどのメーカーもこれからの方向性を示唆する新しいもの(参考出品)が展示されます。トヨタ自動車でも「G21で開発が進められているプロジェクト車を東京モーターショーに」という声が上がります。プロジェクトメンバーにとっては早くも次の課題です。

 開発車にはこの時点で「プリウス」と命名されていました。プリウスという言葉には「~に先駆けて」という意味があります(ラテン語)。そしてその一文字一文字にも意味が与えられていました。

 P=Presence(存在)

 R=Radical(革命的)

 I=Ideal(理想)

 U=Unity(調和)

 S=Sophisticate(洗練)

 そして、プリウスに開発コードが与えられました。開発コードは「890T」。開発コードが与えられるという事は、実験プロジェクトではなく、販売を前提とした開発である事を意味します。

 さて、東京モーターショーに登場したプリウス、テーマは「これからのセダン」。意外と普通の言い回しで、見た目(デザイン)自体も出来るだけ「普通の車」らしく意図されていました。且つ東京モーターショーで実際に展示されたプリウスにはハイブリッドシステムは搭載されていませんでした。蓄電装置にキャパシタ(コンデンサ)を採用したコンセプトカーが展示されました。EMS版プリウスです(EMS=エネルギーマネージメントシステム)。

 研究開発が進められていたハイブリッドシステムを紹介するだけなら展示発表できる段階まで進んでいましたが、50%以上の燃費向上を達成する事は出来ていませんでした。蓄電池の性能や制御の仕組みなど改善しなければいけない課題がまだありましたが、それでも東京モーターショーでプリウスが紹介されると、世の中から大きな反響をよびました。

トヨタ自動車株式会社 HP 参照

 東京モーターショーが開催されている頃、G21へのハイブリッドシステムの搭載がトヨタ社内で承認されました。製品化に向けてまた一歩前進した事になりますが、何よりハイブリッドシステムの開発が社内で最重要課題となり、プリウスの開発はここから急ピッチで進んでいく事になります。

●生みの苦しみ<価値創造> 

 東京モーターショーが開催されている頃、市販化を目指した試作車が出来上がっていましたが、起動もせず、コンピュータも立ち上がらず、エンジンとモーターが連動しない等、当初のプリウスはトラブル続出でした。そんな中、新たな指令が発せられます。なんと燃費向上50%から100%への変更でした。トヨタ自動車がクルマをつくり始めて60年の間で、燃費を一挙に半分にする等といいないこういこううプランは初めてでした。急ピッチで進められていたハイブリッドシステムの最新の数値でも燃費半分は達成していませんでしたが、「新車種の燃費が最初の予定の50%アップのみだったら到底21世紀を担う車にはなり得ない。890Tプロジェクトは解散すべし」とまで言われ、燃費達成は至上命令になりました。

 一番の課題は、電気モーターを動かすバッテリーに使用されるニッケル水素電池の性能と電力を出し入れする制御の技術でした。必要とされる電池の能力・容量の目標値を想定した上で、プリウスそのものの性能を決め、構想図を描きましたが、なかなかうまくいかなかったのが現実でした。そんな折、当時の社長奥田氏から、1998年末に発売予定だったプリウスを1997年中に前倒しするようにと指示が出ます。プロジェクトメンバーは「21世紀に先駆けて出すというのだから、1999年末でいいのかな?厳密に言うと21世紀は2001年からだから2000年末に出せればいいですよね。」等と冗談っぽく言っていた様ですが、京都で第3回気候変動枠組み条約締約国会議(COP3)が1997年12月に開催される予定になっていた事も、プリウスの発売予定に影響したのではないでしょうか。COP3が開催されるこのタイミングでCO2を劇的に減らす事の出来るハイブリッド車が発売されれば、大きな話題となります。ですが、理由はそれだけではなく、他自動車メーカーが類似の開発を進めている事は明白で、1999年を真に受けていては、他社に負けてしまう事も危惧されていたからです。

 この時点でのニッケル水素電池の性能は予定の約半分で、大きさは2倍でした。松下電池㈱との合弁会社で、水素電池の開発を進めますが、電池の性能が向上しなければ、その分バッテリーのサイズを大きくしなければならず、そうなればボディの設計を変更する事になり、また、トランクルームの容量を減らす必要も生まれます。そうなると当初のコンセプト「普通の乗用車としての性能・利便性の確保」が難しくなる。多くの課題の解決に向けて、同時並行で課題に取り組みはじめます。時は1996年の事です。プリウス発売まで2年を切っていました。

●新たな歴史のスタート 

 プリウスの為に、数百台のエンジンが試作され、また試作車の数も60台を超えました。試作車が出来る度に、社内の関係者や評論家に試乗してもらい、その都度調整が繰り返されました。そして1996年9月、プリウスのデザインが決定し、開発も最終段階を迎えた頃、プロジェクトチームは退路を断たれます。

 1997年3月、トヨタ自動車は赤坂のホテルで、THS(トヨタ・ハイブリッド・システム)の技術発表会を開催したのです。プリウスという名前もその姿も伏せた状態での発表会でした。

 奥田社長は「燃費は従来のガソリンエンジン搭載の乗用車に比べて半分、排出するCOも半減。その他の排出ガス(CO、HC、NO)は現行規制値の十分の一を達成した新型車を年内(1997年)に発売したい」という内容でした。

 この内容は自動車関係者にインパクトを与えただけではなく、社会の大きな話題となりましたが、この時点でもプリウスは未完で、既存の車にハイブリッドシステムを搭載して一般の人々に体験してもらう試乗会を開催して、感想や意見・反応などを集約。すぐにプロジェクトチームに伝え、調整を繰り返す段階でした。

 そして、1997年10月に開催された東京モーターショーの直前、赤坂のホテルでプリウスはそのベールを脱いだのです。この時プリウスは、エンジンをかけずに場内を走ります。記者たちは間違いなく度肝を抜かれた事でしょう。当たり前の事ですが、ホテルの中で車のエンジンをかける事は出来ません。消防法に抵触する為です。トヨタはわざとEVモードだけで駆動させて走行し、プリウスが近未来的な要素を持つ車としてセンセーショナルに発表したのです。直後に開催された東京モーターショーでは、名前も姿も、その全容が発表される事になります。「プリウス 21世紀を先取りした“ハーモニアス ビークル”を開発テーマとするトヨタハイブリッドシステム搭載のイノベーションモダン」クルマと人、クルマと社会、そしてクルマと地球との調和を目指した車、それがプリウスだとリリースされたのです。

 そして、注目の燃費は28km/ℓと、同等のガソリン車の2倍という驚異的な数値で、目標は見事に達成されていました。ですが、東京モーターショーで参考出品されていたプリウスが発売された訳ではありません。発売まであと2か月、それでもプリウスの手直しは続いていたのです。

 そして、いよいよ1997年12月10日、多くの人との努力と情熱の結集としてプリウスは発売されました。21世紀の社会が直面するであろうエネルギー問題や、環境問題を乗り越えていく車として多くの人の期待を背負っていただけではなく、従来の車と比べて価格面で大きく変わらない(同等クラスのカローラより50万円程度高い215万円)点なども評価されました。

 プリウスが、次世代の自動車である事は間違いなかったが、発売されたばかりのプリウスは多くの人にとって特別な存在であり、まだまだ衆人環視の中に在ったのではないでしょうか。プリウスが大ヒットを遂げるのは2代目以降であり、初代においては、発売翌年(1998年)の販売台数は18,000台であった。同クラスの自動車の販売台数としては決して多くはないが、それでもプロジェクトチームの予想を上回る販売台数であり、またハイブリッドシステムといいないこういこうう新時代の到来を担うには初代プリウスは十分な役割を果たしたと言えます。そして、初代プリウスは1997年―1998年のカー・オブ・ザ・イヤー賞を受賞したのです。

日本カー・オブ・ザ・イヤー HP 参照

●そして欧米へ 

 1997年12月に初代プリウスが発売されてから2年半後の2000年に、マイナーチェンジしたプリウスが欧米市場での発売をスタートさせました。

 国内で発売後、その経験をフィードバック、且つ欧米地域での車の使い方を想定した上での設計及び、地域特性も考慮した基本性能の確保等を構築してからのマイナーチェンジでしたが、その間にホンダのインサイトに北米初の量産ハイブリッド車の座を奪取されてしまいます。ただ、ホンダのインサイトは、プリウスとはコンセプトが異なるハイブリッド車でした。プリウスは出来るだけガソリン車との差異を感じさせない乗り心地を追求してきたのに対し、インサイトは空気抵抗の少ない2人乗りクーペいいう個性を前面に出したスタイルで勝負に出来ました。ハイブリッド車の特性を存分に生かした世界最高水準の低燃費でしたが、初代のスタイルは売れ行き不調で一旦市場から撤退します。

 話は、プリウスに戻ります。マイナーチェンジしたプリウスは、ハイブリッドシステム、電池、モーター等部品の90%を作り替え、フルモデルチェンジと言っても過言では無い程のシステム大改良を行い、動力・燃費共に向上させた上で欧米市場での販売スタートでした。初代プリウスの立ち位置はまだ「特殊な車」であり、販売初期は販売台数もなかなか伸びませんでしたが、徐々にその存在はクローズアップされる事になります。2代目プリウスは大ヒットとなりその名を不動のものにしますが、2代目大ヒットにはどんな背景があったのでしょうか。次は2代目プリウスの歴史について見てみたいと思います。